この日記の中で、「ニセコ」のことをたびたび書きながら、ニセコと私の関係を説明してこなかったので、今日はそのことを記しておきたい。
実は、私にとってニセコは「第二の故郷」と言ってもよい存在だ。でも、私はニセコで生まれたわけでも、育ったわけでもないから、「第二の故郷」というのは私の思いがそこにあるという意味なのよね。
話せば長くなるので、かいつまんで話すと、そう、今から14年ほど前の夏、まだ母が元気だった頃のことだ。私は母とともに休暇を過ごせる静かな場所を探していた。できれば涼しい……そうだ、北海道にしよう!と直感的に思った。そこで、北海道出身の編集者に訊ねたところ、ニセコの貸別荘で過ごしたらどうかとおっしゃって、パンフレットを取り寄せてくださった。
私はなんだかとても嬉しくて、母と一緒にそれまで縁もゆかりもなかったニセコにさっそく向かった。飛行機と列車を乗り継いでやっと到着したニセコは、羊蹄山が一望できる素晴らしい一帯。そこには自然の地形を生かして開発された一大別荘地があって、その中にあるログハウスが貸別荘になっていた。ゆるやかに傾斜するその別荘地の地形に、私はすっかり夢中になってしまった。当時はまだ別荘の数が少なく、土地を購入することも可能だという。私の頭の中は、母と休暇を過ごす家を建てたいという思いでいっぱいになってしまった。私の目にはニセコがあまり魅力的に見えて、東京とはかなり離れていることなど、どうでもいいとさえ思えた。
そこで、いろいろと土地を見せてもらい、樹齢数百年はあろうかと思われる、三本の大木がある場所が一番気に入った。私は後先も考えずに、即、土地購入の契約を結び、翌年に家を建てた。母がゆっくりできる部屋は一階に決め、母が大好きな色である淡いパープルの壁紙を貼り、同色の絨毯を敷き詰めてもらった。私の書斎と寝室は二階にした。ログハウスが一番似合うような土地柄だが、私は洋館風のデザインにした。
ところが、家が完成して、いよいよ母に来てもらおうと思っている矢先に、母は骨粗鬆症のために背骨の下部を骨折。遠いニセコまではとうてい無理ということになってしまった。おまけに母は、両眼の緑内障が進行して、目で楽しむ歓びまで次第に奪われ始めていたのだ。
母と過ごすことばかりを想い描いて建てた家。これでは何のために建てたのかわからない。とにかく、一度だけでもいいから母を連れて行きたい。母にゆっくりとニセコの部屋でくつろいで欲しい。医師には長時間の旅は厳禁だと言われているが、何とかならないものだろうか……ただひたすら、そのことばかりを考え続けた。でもやがて、それは私の身勝手な願いであることに気づき、以来、私は母をニセコに連れて行くことを諦めた。
当時、札幌テレビの「どさんこワイド」という番組にレギュラー出演していた関係もあり、私は家を建ててから約7年間は、東京とニセコを行ったり来たりしていた。その間に、自然に友人知人が増え、ニセコはまさに「第二の故郷」のようになり、私が行くと「お帰りなさい」といろいろな人が声をかけてくれるようにもなった。そのこともあってか、私自身もいつの間にか、「ニセコに帰る」という感覚になってしまったのよね。
でも、後半の6年間は、母が入退院を繰り返すようになり、母のことを思うと、私一人でニセコに行くことはできなくなった。それからというもの、ニセコは「望郷の地」と化し、家は空き家のままの状態が続いた。人の住まない家ほど侘びしいものはない。この一、二年前には、外壁のペンキもだいぶ剥げてきたという情報が入って、「もうこのままニセコの家には行けないのかしら……」という何とも淋しい思いが胸に去来するようになった。
そうこうしているうちに、母が昨年の暮れに他界した。最愛の母を亡くすのは、想像を絶するほど辛く悲しい。「母は老衰で亡くなったのだから仕方がない」と自分にいくら言い聞かせても、なかなか割り切って考えることができない。しばらくは、この「モイラの日記」も書けないほどであった。でも、結果的に考えると、母は私に「時間というプレゼント」を与えてくれたのだ。もう、半分諦めていたニセコという第二の故郷に帰る時間を私にくれたのだ。
私はいよいよ、この3日に母の位牌と写真を連れて、ニセコに向かう。