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このページは2005年6月16日〜6月25日の日記です。

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2005年6月25日(土)

書斎の片隅に飾ってある私のお気に入りグッズ(約12cm)

洋の東西を問わず、幸運を招くグッズというものは数々あり、私もいくつか持っている。その中に、10年近く前に仕事関係の方からいただいたハイヒールの置物(フランスで手作りされたもの)があって、ずっと書斎に飾ってある。上の写真のようにグリーンの布が貼られ、飾りの付いた可愛い片方だけの靴だ。「幸運を呼ぶ靴と言われているので」と言ってプレゼントしてくださったのよね。

私はこの小さなハイヒールを見たとたん、アイルランドに伝わる「妖精の靴屋レプラコーン」の伝説を思い出した。レプラコーン(Lepracaun)はレプラホーンとも呼ばれ、人里離れた秘密の場所に住んでいると言われる一人暮らしの妖精。背の高さは1フィート半(45センチ)くらいで、帽子をかぶり皮のエプロンを前に垂らした老人の姿をしている。彼は常に靴を作り続けているが、何故か片方の靴しか作らない。誰もいないはずの所で何かを叩く音が聞こえたら、それはレプラコーンが靴の底革をたたくハンマーの音だとされていた。レプラコーンは大変に気難しいが、大金持ちで、脅されると財宝の隠し場所を教えてくれることがある。でも、彼の甘い言葉にだまされて、うっかり目を離すと、たちまち姿を消してしまう。

このレプラコーンに関しては、妖精をつかまえた具体的な話などがあって、幼いときに母がそれを話してくれたのよね。母は若いときに妖精の話が書かれた英語の本を読んで知っていたらしい。いつか日記にその話を書いてみたいと思う。

そうそう、このレプラコーンの作る素敵な片方だけの靴を手に入れると、幸運や金運に恵まれるようになるとも伝えられている。私が飾っているこのハイヒールが、レプラコーンの伝説に基づくものかどうかはよく分からない。この妖精の話はアイルランドの民間伝承だし、ひょっとすると、シンデレラの片方の靴を意識して作られたのかも知れない。でも、私にとっては、どうしてもこれは「レプラコーンの靴」なのよね。

2005年6月24日(金)

最近気に入ったシャワージェル・ラベンダー

「プロヴァンス」という地名を聞いたとき、皆様はどんなことをイメージされるかしら。私はこの名称の何とも言えない音楽的な響きに、心が吸い込まれるような魅力を感じる。オリーブの樹が繁り、ラべンダーが香る南仏の自然豊かな一帯が目に浮かぶ。といっても、私はまだプロヴァンスに行ったことがない。だから、観光ガイドや何冊かの本で知ったことをもとに勝手にイメージをふくらませているだけなのだけれど……。もう少し時間的な余裕が持てるようになったら、プロヴァンスをぜひ訪ねたいと思っている。

そんな思いを常日頃から抱いていたら、先日、新宿の駅ビル、マイ・シティーの地下2階に素敵なお店がオープンしたのを発見した。プロヴァンス地方で採れる植物やエッセンシャルオイルを使用した自然派志向のスキンケア商品を販売するお店だ。お店の名は「ロクシタン(L’OCCITANE)」。現在、ロクシタン・ブティックが日本全国で30店舗くらいあるようだから、すでにご存知の方も多いと思う。

私は、プロヴァンスの香りに包まれたくて、早速ラベンダーとローズのシャワージェル、ローズのオードトワレを購入した。ラベンダーもローズもこの上なく上品で素晴らしい香り! この2種類のボディーシャンプーをその日の気分で使い分けている。お陰でバスタイムがいっそう楽しいものになった。この香りがまさに心身を癒してくれるのよね。来月、ニセコにも忘れずに持って行きたいと思っている。

そして今日、仕事で外出した際に再びロクシタンのブティックに立ち寄り、ニセコの友人へのおみやげとして、ラベンダーのシャワージェルを購入した。彼女がラベンダーの香りが一番好きだと言っていたのを思い出したのだ。お店のカウンターで、プレゼント用の包装をお願いしたところ、上の写真のようにラッピングしてくれた。リボンで飾ることもなく、なんとも素朴な包装だが、なかなかオシャレ! 店員さんによると、ロクシタンでは世界中のブティックで全く同じプレゼント用の包装をしているという。不必要な包装はしないというお店のポリシーがあるようね。世界共通の包装というのも良い方法だと思うし、こういうしっかりしたポリシーを持っている会社って好きだわ。

私は気に入ると、けっこうのめり込むたちだから、当分の間、ロクシタンのボディーケア製品を買い続けることになりそう。マグノリアやミモザ、ヴァーベナ、グリーンティなど、まだまだ使ってみたい香りのものがたくさんあるのよ。

2005年6月23日(木)

念願のシューティングスターモチーフ

今週も残りわずか2日になってしまった。どうしてこうも1週間が経つのが速いのだろう。26日(日)には朝8時30分よりQVCに生出演することになっている。今回のモイラジュエリーは、7点の新作を発表するが、その中に流れ星(シューティングスター)をモチーフにしたリングとピアスがある。実はモイラジュエリーのロゴにもこのシューティングスターが商標登録された当初からデザインされている。それで、もう何年も前からこのシューティングスターをモチーフにしたジュエリーを創りたいと考えていた。

ただ、星をモチーフにしたジュエリーは簡単そうに見えて、実際はかなり難しい。ややもすると子供っぽくなって、大人が身につけるにはちょっと……といった代物になる恐れがある。ましてや流れ星の動きをどう表現するか、これは大きな課題だった。でも、モイラジュエリーのチーフデザイナー石垣順子さんが、この難関をクリア。動きのある実にいいデザインをしてくださった。特にピンキーリングのエレガントさには私もすっかり魅せられてしまい、ずっと身につけようと思っているのよね。

ところで、読者の皆様は流れ星をどのようにとらえていらっしゃるのだろうか。流れ星に願いをかけた経験がおありの方も多いのではないかしら? 日本各地には、この流れ星に願いをかける伝説が数多く残されている。岡山県浅口郡には「流れ星を見たら、ヌケボシと言うと幸せになれる」という言い伝えがある。津軽(青森県)には「『金欲し』と言えばお金持ちに、『八寸』と言えば背丈が伸びる」と言う伝説が。静岡県には「好きな女性の名前を三度唱えると嫁にもらうことが出来る」という話がある。また、鹿児島県枕崎市では「病人が流れ星を見ると早く良くなる」と言い伝えられている。このように日本全国で流れ星に願いをかけているわけね。

時代をもっとさかのぼると、「枕草子」にも流れ星のことが書かれている。流れ星に願いをかける話ではないが、平安時代の人々が、また、清少納言が「流れ星」をどうとらえていたかが分かって、ちょっと興味深い。「枕草子」の文章はこうだ。

「星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひぼしすこしをかし。尾だになからましかば、まいて。」(新編日本文学全集十八 枕草子より)

星の名前を羅列しているが、どれが流れ星なのか、順を追って説明しよう。まず「すばる」は牡牛座のプレアデス星団の和名。「ひこぼし」は七夕で有名な「織り姫と彦星」の「彦星」。「ゆふづつ」は金星。そう、「よばひぼし」が流れ星を意味している。

そもそも「よばひ」の語源は「よばふ」で、古くは「何度も継続的に呼びかける」という意味だった。これが平安時代になると「よばひ=夜這い(よばい)」となり、「夜、男性が女性のもとへしのんでいく」という意味のかけ言葉として使われるようになったという。何とも平安時代らしい話ね。

さて、上記の枕草子の文章を現代語にすると「星というと、すばるね。彦星や金星もいいし、流れ星も風情(ふぜい)があるわ。でも、流れ星に尾っぽがなければ、なおいいのにねえ……」となる。ではいったい、清少納言はなぜ流れ星に尾っぽがないほうがよいと言ったのだろうか。それは、「よばひぼし」を男性に例えているからだという説がある。清少納言は「夜、しのんでくるのに、まるで流れ星みたいに派手に尾っぽなんぞ見せちゃって、これでは人目につくじゃないの。どうせなら、誰にも見つからないように、ひっそりとうまくしのんできて欲しいものだわ」と言っているのだとか。これはあくまで解釈の一説に過ぎないようだが、清少納言らしく感じて面白い。

流れ星に関しては西洋にももちろん伝説がある。このお話はQVCに出演する際にしたいと思う。

2005年6月22日(水)

ドクターは賢く選ぼう

これは占いとは関係がないが、最近、共通点のある3つの話に接した。読者の皆様に参考になれば嬉しいので、敢えて、今日の日記に記したいと思う。

Aさんは、若いときから痛風という持病を持っていた。痛風とは血液の中の尿酸値が高くなると、それが結晶化し、足の親指の関節などに激烈な痛みを発する病気だ。ところが、痛み止めの薬を使うと激烈な痛みはほどなくおさまり、また何の問題もない日常に戻ってしまうという。Aさんは、そうした一時しのぎの対処療法を長年続けてきた。

そんなAさんに友人が痛風の専門医に一度診てもらうことを勧めた。Aさんは、しぶしぶ友人の勧めにしたがって、痛風の専門医に診てもらった。「あなたの体内には長年溜め込んだ尿酸が蓄積されていて、すでに腎臓までダメージを受けています。このまま放置すると人工透析の必要が出てきますよ」と医師から告げられた。Aさんは青くなって現在、その痛風専門医の指導にしたがって真面目な治療に専念している。

Bさんは、パソコンのマウスの使いすぎから、右手首に激烈な痛みをともなう腱鞘炎(けんしょうえん)を引き起こしてしまった。近くの整形外科に通い電気治療と湿布薬、それに飲み薬を続けた。ところが一ヶ月経ってもいっこうに痛みが消えない。そこで別の整形外科医院の門をくぐり、同様の治療を続けた。それでも少しも改善しない。そこでハリ灸を試し、最後は気功にも行ってみた。この段階ですでに半年が経っていた。

そんなBさんにある知人が手の専門医があることを紹介した。某大学病院の整形外科の中にある「手」の専門外来だ。Bさんは、すがる思いでその外来に行った。この半年間の悪戦苦闘を担当の医師に話すと、医師は笑いながら、「すぐに治りますよ。注射一本です」と言う。ホントかいなとBさんが信じられない思いで痛む右手を差し出すと、ぶすりと注射一本。「数日で痛みはなくなります」医師はこともなげに告げた。

結果は、医師の言ったとおりで、痛みは数日後には嘘のように消え去り、腱鞘炎は直ってしまった。あの半年間の悪戦苦闘は何だったのかとBさんは思った。

Cさんは、以前からふとした時に胸が苦しくなる症状を自覚していた。心臓が悪いのではないかと思い、その症状を行きつけのホームドクターに話し、その都度、心電図をとってもらったが、どこも悪くないという診断だった。このような繰り返しはもう十数年続けてきた。でもやはり気になる。

そんなCさんの不安を聞いた友人が、だったら心臓の専門病院に行った方がいいと強く勧めた。Cさんも、それはそうだなと思い、インターネットで心臓の専門病院を調べ、外来を訪ねた。すると早速、24時間の心電図を記録できる携帯用の心電図計器を体に取り付けられた。これは大変なことになったなとCさんは思ったが、これで長年不安だった胸の痛みの原因が分かれば安心と、覚悟を決めた。その翌日、同病院に計器をはずしてもらいに行くと、データの解析は2週間後だという。

2週間後、Cさんは複雑な気持ちで同病院に出向いた。ところが、分厚いデータの束を見ながら、専門医は「まったく問題のあるデータは出ていません」と言う。やっぱり同じ結論か、とCさんは安心しながらも、前々からの不安が解消されないことになんとも言えない気持ちを抱いた。すると、「でも、この心電図のデータだけでは分からない場合がありますから、トレッドミルという負荷をかける運動をやってもらいます」と医師から告げられた。トレッドミルとは、スポーツジムなどにある、動くベルトの上を歩くマシンと同じものだ。

その結果、負荷をかけた場合の運動時に、Cさんの心臓は虚血症を引き起こしているということがはっきり判った。そこで医師は即、その原因を調べるためにカテーテル検査をする手筈をとり、Cさんはその後、2泊3日の検査入院をした。そこで判明したのは、Cさんの冠動脈の1本は通常の10分の1の細さに狭窄(きょうさく)しており、いつ心筋梗塞が起こってもおかしくない状態になっているということだった。Cさんは、間もなく同病院で手術を受けることになっている。

ずいぶん長くなってしまったが、Aさん、Bさん、Cさんの共通点は、もうお解りのように、「専門医」によって初めて救われたということなのよね。行きつけの「ホームドクター」ももちろん大切な存在。でも、ホームドクターは万能ではない。体の具合が悪く、それが長引くようなら、「専門医」に早く診せることが最も重要だと思う。専門の医師を賢く選ぶか選ばないかで、場合によっては生死の分かれ目にもなるのだから……。

もし今、体の不調で悩んでいる方がいらっしゃったら、ぜひ「この病気では一番という実績のある専門医」を探し、その門をたたく勇気を持ってくださいね。そして、それには何よりネット検索が役立つこともお知らせしておきますね。

◆上記の専門医の診察をご希望の方はこのホームページにメールをくだされば、お教えします。

2005年6月21日(火)

瓦礫(がれき)と化した当時の広島産業奨励館(現在の原爆ドーム)
昭和20年11月米軍によって撮影された記録写真

「戦争を知らない子供たち」というフォークソングが一世を風靡したのは、今から35年前の1970年。だから、このホームページを訪れてくださる皆様の中には、「そんな歌知らない」という方も多いかも知れない。考えてみると、すでに今という時代は、「戦争を知らない子供たちの子供たち」の時代になっているのよね。

かくいう私も、戦後生まれだから、「戦争を知らない子供たち」のもちろん一人だ。けれども戦後という時代の記憶はおぼろげだがある。日本全体が敗戦の傷跡をあちこちに残しながら、次第に復興し、やがて高度経済成長の時代を迎えると、日本は世界に冠たる経済大国にまでなった。でも、1980年代後半のいわゆるバブル経済を最後に、地価や株価は急落しバブルは崩壊。現在の低成長時代となってしまった。

こうした時代の変遷を思い返しながら、現在という時代を見つめると、どうしても日本の将来に一抹の不安を感じてしまう。「戦争は二度としない」と誓いながらも、目には目を、歯には歯をという力の論理が台頭してきている。パワーバランスという高度な国際政治の力学も理解しない訳ではない。でも、60年前の太平洋戦争で命を落とした日本国民が300万人であったという、あまりに悲惨な過去を忘れてはならないと思う。何とアジア太平洋地域全体では2,000万人もの死者があったという、想像を絶する修羅の世界が繰り広げられていたのだ。これはそんなに大昔の話ではない。むろん悪い夢でも何でもなく、間違いなく現実に存在した世界だ。それなのに今や、戦争というものが、現実を離れて観念化してしまっているような恐ろしさを感じる。

戦後60年という節目で、このところ太平洋戦争に関する報道が新聞紙上を賑わせている。ここで私たちは今一度、私たち自身の「戦争と平和」を冷静に考え、日本の将来に関わる判断の原点をどこに置いたら良いのかを見つめ直す必要があるのではないだろうか。上に挙げたおびただしい死者たちは、1941年12月8日の日本軍によるハワイの真珠湾攻撃に始まって、1945年8月15日の昭和天皇による敗戦の玉音放送に終わる。そう、わずか3年と8ヶ月余りの間に行われた戦争の犠牲者たちの数なのだ。

2005年6月20日(月)

私の大好きなショートケーキ

仕事で外出した帰り、ちょっとお腹が空いて京王デパートの8Fレストラン街へ。考えてみると、今朝は、クロワッサン一つと牛乳グラス一杯だけで、あわてて家を飛び出している。その後、口にしたのはお茶だけで、もう午後3時過ぎ、お腹がすいて当然よね。レストラン街を一応ぐるりと歩いて、「コロンバン」に入った。

メニューを見ると、サラダと小さなグラタンに小さなパン、ケーキと紅茶のセットがあったので、それを注文した。ウエイトレスさんが「ケーキはどれになさいますか?」と、写真入りのケーキリストを見せてくれた。10種類くらいの美味しそうなケーキが並んでいる。おっ、あるじゃないの、ショートケーキ! 私は他のケーキはろくろく見もせずに、瞬間的に「ショートケーキ」をお願いした。

また、やっちゃった! どうして、いつもこうなのかしら!? 私は子供の頃から、真っ赤なイチゴの乗ったショートケーキを見つけると、他のケーキが目に入らなくなる妙なクセがある。何故そうなのか、自分でもとんとその理由が分からない。ショートケーキだけにスポットライトが当たっているように見えて、条件反射的にそれを頼んでしまうのだ。

困ることにショートケーキはたいていのレストランやティールームある。だから、いつもこればかりをいただくことになるのよね。ただ、たまにショートケーキがないお店がある。そのときは、チーズケーキやチョコレートケーキなど、その他のケーキを頼むし、それなりにとても美味しいと満足。ショートケーキがないからといって、不満に思うこともないから、つまりショートケーキの文字や姿さえ、目に入らなければいいのよ。

そして、毎回、ショートケーキを食べ終わったときに必ず「次回は絶対他のケーキにしよう!」と思うのよね。もちろん、今日もそう考えた。

2005年6月19日(日)

都会の公園の鳥だち

今日は久しぶりに日曜日らしい時間が持てた。と言っても大したことではない。近くの公園を散歩し、のんびりした時間を過ごすことができたというだけ。でも、そのわずかな時間のおかげで、楽しい観察ができた。

自然がたくさんある土地にお住まいの方には信じられないかも知れないが、都会の公園で見かける鳥類と言えば、スズメ、ハト、カラスくらい。公園のベンチに腰を下ろして観ていると、この三種類の鳥たちがうまい具合に着かず離れずで共存しているのね。何か餌になるものがあるのか、同じ場所に代わり番こに舞い降りてきては、しばらくすると別の種類の鳥にその場所を明け渡している。カラスの次はハト、ハトの次はスズメという感じにね。

私は、そこで面白いことに気づいた。三種類の鳥たちの歩き方だ。スズメは極めてすばやくピョンピョンピョンピョン……と跳ね回る。それに比べてカラスはかなりダイナミック! ピョン、ピョンとジャンプでもするように動き回る。ところがハトときたら、何ともまあ、おっとり型。二本足を交互に動かしてヨチヨチと歩くのだ。専門的な生態のことは分からないが、私の観察ではそうだった。

公園に来て、実際、観察しなければ、ほとんど考えもしなかった鳥たちの歩き方。歩く姿を漠然とは知っていたが、興味を持って観たことがなかったのよね。でも、子供頃はそうではなかった。庭の樹に鳥がとまれば、じっと観ていたし、蟻の行列を見つければ、いったいどこまで行くのかと、後をつけたりした。植物に対する興味も今よりずっとあった気がする。道ばたの雑草の花を摘んで持ち帰ったり、ドングリなどの木の実を拾ってポケットに入れたり……。見るもの見るものが、いつも驚きと感動にあふれていた。

人は、大人になるにつれ、身近な自然に対する観察眼を忘れて、日常の雑事に追われるようになる。でも、時には童心に帰って、何でもない身近な自然を観察し、そこにある素晴らしい営みを知ることは大切ではないかしら。

2005年6月18日(土)

テレビ電話機能付きケイタイ電話の使い道は?

「新製品」という表示に私はけっこう弱いところがある。食べ物にしても家電製品にしても、「新製品」と謳われていると、衝動的に購買意欲がかきたてられる。好奇心が人一倍強いせいもあると思うが、「新製品」というだけで、買ってしまったものがけっこうあるのよね。実は今日も、パソコンのニューモデルにひかれて、パンフレットを眺めたりしていた。

読者の皆様も同じような経験がおありかもしれないが、「新製品」といっても、必ずしも納得と満足が得られるとは限らない。「な〜んだ、こんなもの……」とちょっとガッカリすることも多いのよね。これは、通販などで「最高の味! やみつきになる美味しさ!」などというキャッチフレーズで売られている食品も同じ。いざ届いてみると、「これを最高というのかしら?」というものが……。でも、もちろん、本当にやみつきになるような美味しいものにも、ときどき巡り合うから、ネットグルメ、通販グルメはやめられないのよね。

このように、新製品にしても何にしても「成功」と「失敗」を懲りずに繰り返しているが、この1年以内に購入したものの中で、まったく当てがはずれた製品がある。それはテレビ電話機能つきケイタイ電話だ。テレビのコマーシャルを見て、「ワーッ、すごい!」と即購入。マニュアルを読みながら、友人とテレビ電話で会話をする楽しい情景を想い浮かべて、ひとり悦に入っていた。

ところが、はたと気づいた。一体、誰とテレビ電話で話したらいいの!? テレビ電話を持っている人も心当たりがないし、私が持っていることも誰も知らない。それに、パジャマ姿のときにかかってきても困るし、画面を見ながらお喋りするということは、耳から電話機を離して喋らなければならない。つまり、相手の声はスピーカーから発せられる。他の人がいるような場所では恥ずかしくて、とても使えないじゃないの。

結局、私のテレビ機能付き電話は、知り合いの方と数回テスト的に使ったきり! これでは、まさに宝の持ち腐れよね。テレビ電話って、たぶん恋人同士が持って初めて楽しいものじゃないかな。私には当分、無用のものね。

2005年6月17日(金)

夏の到来を告げる日本の味覚

3日前の14日の日記でサクランボのことを書いたが、今日はなんと「ビワ」をいただいてしまった。14日の日記をお読みになって、同じ初夏を彩る果物の「愛媛のビワもぜひ!」と送ってくださったのよね。実は私、ビワも大好物! とても嬉しい。

そう、「ビワ」もハウス栽培を除けば、この時期だけに出回る果物ね。プレゼントの箱を開けると、卵の黄身のような色合いの、ふっくらとした、いかにも健康そうなビワが並んでいる。早速ひとついただいてみることにした。皮をスーッ、スーッと剥いて、果肉に歯を立てると……まあ、なんてジューシーなの!? それにとっても甘い! こんなに美味しいビワにはめったに出会わないものよ。でも、ビワって、他の果物と違って、どこか懐かしい日本の味という感じね。

でも……「ビワ」という名前は、どこから来たものなのかしら? 調べてみると、果物としての歴史は古く、中国では5世紀頃から食されていたもよう。「ビワ」という名前は中国名の「枇杷」の音読みからきたもので、この中国名の枇杷の由来は、楽器の琵琶を意味するとのこと。どうしてそのような名前が付いたかというと、ビワの実の形が楽器の琵琶に似ているからだそうだ。

日本では、ビワの実は奈良時代(710年〜784年)から食べられるようになった。でも、果樹として栽培された記録があるのは、10世紀頃から。ただし、当時、ビワは一般にはあまり好まれなかったという。それが、江戸時代から明治時代にかけて、本格的に栽培されるようになり、一般的な果物となっていったようだ。果物として改良され、ずっと美味しくなったのかも知れないわね。

ところで、西洋で「ビワ」は一般的な果物なのかしら? ヨーロッパ諸国の事情は分からないが、少なくともアメリカにおいては、「ビワ」に相当する単語に「loquat(ロウクァット)」という名詞があるが、なんと「ジャパニーズ・プラム」とか「ジャパニーズ・カリン」などと説明され、商業的に大量生産されたり、一般に販売されている果物ではないようだ。

やっぱり、ビワは東洋的な果物なのね。日本人だからこそ、心の琴線に触れるのかもしれない。でもいつか、ビワが中国においてはどのように食されているのか、他にもビワを果物として好んで食べる国があるのか、調べてみよう。でも、今はこの愛媛のビワを心ゆくまで味わいたいわ。

2005年6月16日(木)

「第二良の湯」さんのペンキ画

私の事務所がある場所は、いかにも大都会といったビルばかりが建ち並んでいる。でも、裏通りを歩いてみると、所々にまだ昔の面影を残す建物などがある。そのなかに、いかにも昔ながらの銭湯があり、散歩の際などにその前を通ると、そのたびに何となく懐かしい思いになる。ただ、私が銭湯に通ったのは、家の改築をした小学5年生の時だけで、その後は銭湯に行ったことがない。ずいぶん昔の思い出になってしまっているのよね。

ところが、私のマネージャーは、この銭湯にしょっちゅう通う大の銭湯好き。仕事が一段落すると、すぐ「銭湯に行ってきます」といって近くの銭湯に足を運ぶ。車の中には、いつでもどこでも銭湯に行けるように、お風呂セットを一式常備しているようだ。マネージャーによると、事務所から歩いて行ける範囲にも銭湯が三軒あって、一軒は今風のスーパー銭湯、もう一軒はビルの一階にある比較的新しい銭湯、もう一軒は私がときどき前を通る昔ながらの木造建築の銭湯だという。

マネージャーはその三軒をその時の気分で行き分けていたようだが、最近はほとんど昔ながらの銭湯に決めたらしい。「どうしてそのお風呂屋さんがいいの?」私は何気なく訊いてみた。「やっぱり、富士山のペンキ画があって、いかにも銭湯っぽいし、のんびりした気分になれるから……」 以来、私はそのペンキ画が気になって気になって、いつか見てみたいと思っていた。何故なら、子供の頃、一時期通った銭湯にも大きな富士山の絵があって、それがとても好きだったのよね。

そこで、ある日「その富士山、デジカメで撮ってきてくださらない?」と頼んでみた。だいぶ前のことだ。それから、マネージャーが何も言わないので、忘れてしまったかなと思っていたら、昨日、銭湯から帰ってきて突然「明日、撮影OKですよ」とニコニコして言った。番台のおばさんに訳を話して、銭湯が始まる前の時間の撮影を承諾してもらったのだそうだ。それが、上の写真。銭湯の方のお話では、撮影させて欲しいというリクエストはけっこうあるが、今まですべて断ってこられたそうだ。たまたまマネージャーは頻繁に行く得意客であったから、お許しが出たようなのね。したがって、上の写真はとても貴重な一枚。銭湯の歴史を検証する貴重な資料となるかもしれない。ちなみに、この銭湯の開業は昭和27年ということだから、すでに50年を超える歴史をもっている。

でもいったい、銭湯とはどういう存在なのか? 「そうそう、私が記憶している富士山の絵もこれとそっくり!」などと、感激しながら写真を見ていたら、私の好奇心がにわかに湧き上がった。そこでネット検索をしてみると、「銭湯考」という興味深い論文に行き当たった。早稲田大学文学部、井桁貞義教授の研究室の学生、篠田真紀さんが2000年に書かれた卒論だ。

この論文によると、昭和16年の都内の銭湯は2,796軒。しかし、その後、昭和20年の東京大空襲による戦火でわずか400軒に激減したそうだ。その後また、戦後の復興とともに、昭和43年までには2,687軒とほぼ戦前のレベルに回復。それが東京都の銭湯軒数のピークとなり、以降は年々減少していった。平成11年末の統計では1,323軒となり、ピーク時の半数となっている。この減少の要因は、内風呂の普及が主であるが、高度経済成長期の地上げによる固定資産税の重圧があったことも大きい。

でも、減少したとは言え、この数字は意外だった。私は、もっと銭湯の軒数は少なく、一昔前の10分の1ぐらいかと思っていた。何故かちょっとホッとした気分になる。先の卒論の筆者である篠田真紀さんは、このあたりの数字を次のように分析されている。

「こうして見てきて、いささか感動の念を禁じえないのは、内風呂保有率が90%を超えているにもかかわらず、なお、1,323軒もの銭湯が頑張っているという事実である。これは何を物語っているのであろうか。平成11年の1浴場あたりの平均入浴人数は、都全域で150人。昭和46年のそれは530人。ということは、昔の銭湯は今の銭湯に比べ約3.5倍も混んでいたことになる。仮に、平成11年の時点においても平均入浴人数が530人であるとすると、平成11年時点の銭湯の数は、2,588軒×150÷530≒730軒で十分なはず。しかし、実際の銭湯の数は1323軒。今の銭湯は時間的・空間的にも如何にゆっくりお湯につかれることか。そればかりではない。お湯だって断然きれいなはずだ。」

なるほど、自宅にお風呂があっても銭湯に行く人がけっこういるということね。それはきっと、自宅のお風呂では味わえない「something what(言いしれぬ何か)」があるからに違いない。それだからこそ、私のマネージャーと同様に、多くの人々が銭湯に通っているのよね。まさに「銭湯は都会のオアシス」なのだろう。写真撮影にご協力くださった「第二良の湯」をはじめ、今も頑張って営業していらっしゃる銭湯の皆様に、心からのエールを送りたいと思う。

◆篠田真紀さんの卒論 「銭湯考
◆「第二良の湯」の所在地:東京都新宿区西新宿4-39-6

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