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このページは2005年7月10日〜7月19日の日記です。

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2005年7月19日(火)

羽田空港にて

今日はニセコへの移動日。午後3時55分の飛行機で羽田を出発し、千歳へ向かう。都合のいいことに、すぐ近くのホテルから羽田行きのリムジンバスがあることに気づいたので、これを利用した。

リムジンが渋滞に巻き込まれることも考慮に入れて、少し早めの12時5分発を予約した。このリムジン、乗ってみたら、予想以上に快適なのよね。エアコンの効いた車内のシートに深々と腰を下ろして、ときどき、うつらうつらしていたら、もう羽田!?という具合で、1時少し過ぎには到着していた。

ただ、飛行機の出発までには3時間弱ある。空港でこんなに時間的なゆとりがあることは初めてだ。以前、札幌テレビのレギュラーだったときなど、いつも、ぎりぎりに搭乗手続きをして、まさに駆け込むという感じで飛行機に乗っていた。せっかくだから、この3時間をたっぷり楽しまないとね。というわけで、おみやげを買ったり、ウィンドーショッピングを楽しんだり、和食レストランで遅めの昼食をとったり……羽田空港を心ゆくまでエンジョイした。

やはり、時間的なゆとりって大切だとしみじみ思う。この無駄のように思える時間のお陰で、身も心もリラックス! かなり疲れ気味だった体が、すっかり癒されていた。そして、千歳近くの駐車場で愛車と久しぶりに対面。夕食をすませて、夜10時近く、無事にニセコの家に到着した。

2005年7月18日(月)

熱帯夜は街灯の光も滲んで見える

16日の土曜日と同様、私のスケジュールに合わせて別の某出版社の副編集長さんが休日にもかかわらず、雑誌の企画の打合せのために、近くのホテルのティールームまでご足労くださった。お会いしたら、半ズボン姿なので、いよいよ休日返上で時間をつくってくださったことが分かり、大いに恐縮した。今、流行のクールビズなのね。

ホテルまでは私の事務所から歩いて10分弱なので、タクシーに乗るには近すぎる。10分以上なら迷わずタクシーだが、こういう中途半端な距離というのは、その日の天候具合で判断に差が出る。今日も実はちょっと迷った。マンションを出るなり、何とも蒸し暑い空気に身体全体が包まれてしまい、ちょっぴり嫌な予感。でも、歩こうと決心して元気よく歩き始めた。交差点を渡り、数分歩いたら、もう汗の薄皮が上半身を覆ってしまった。やっぱりタクシーと思ってみたが、もう数分で目的のホテルだ。結局、汗まみれの状態でホテルに到着。

ホテルの冷気に包まれてホッとしたところで、「不快指数」という言葉が頭に浮かんだ。たぶん私が子供のころにはなかった言葉だと思うのよね。この不快指数の意味するところは分かる。でも実際、どういう指数なのかしら? 改めて疑問が頭をもたげてきた。私と同じくらいの知識の方がいらっしゃれば、この機会に一緒に勉強してみません?

よく言われていることでは、不快指数が70を超えると不快と感じる人が出はじめ、75では半数以上の人が不快になり、80を超すともう全員が不快になるという。では一体、この指数とは何から導き出された数なのかしら? 調べてみると、不快指数を導く計算式というものがある。それは、次のような式とのこと。不快指数=0.81×気温+0.01×湿度×(0.99×気温−14.3)+46.3 この式から分かるように、不快指数の中には「気温」と「湿度」の関係が組み込まれている。0.81とか0.01とかの固定値は何からきたのかはわからないが、ともかく「気温」と「湿度」の関係で「快・不快」が決まるということだけは分かった。

でも、ネットで検索してみると、この計算式を使って、「気温」と「湿度」をいろいろなケースに当てはめシミュレーションしている人もいるのね。そういう人の結論では、不快指数は気温のファクターがより強く、ちょうど摂氏30度を超える当たりから不快指数が急上昇するという。ということは、不快指数の上昇は直線的な相関関係ではなく、カーブを描いた二次曲線なのね。要は、気温が30度近くなってくると湿度が上がれば、加速度的に不快に感じられるようになるということ?

なんだか、こんな面倒なことに入り込んでしまって、私の頭の中まで不快指数が上昇してきそう。

2005年7月17日(日)

本番直前、インタビューを受けながら
タレントさんの手相をフィリップに描き込むモイラさん

今日は一日中、六本木のスタジオで過ごした。この5月からスタートしているテレビ東京の「THE占い」という番組の収録のためだ。以前にもこの日記で紹介したが、この番組はタレントさんの悩みに対して、複数の占い専門家がアドバイスを行い、最終的にタレントさんが、自分の意志で結論を出すという大変ユニークな占い番組。

私も占い専門家の一人として、タレントさんの手相から運勢を分析しアドバイスしている。他の占い専門家としては、易の鎗田宗准先生、タロット占いのJ.H.マイヤー先生、アフィー先生で、それぞれご自分のお得意の占術で占い、最後に風水の黒門先生が幸運を呼び込むアドバスをされている。私の場合、長年、占いの世界で仕事をしてきたが、他の占いの方々とご一緒に仕事をするチャンスはあまりなかった。それだけに、今まで親交のなかった方々とお目にかかれることも大きな楽しみのひとつだった。

この同じメンバーで、すでに4回の収録を終えており、今日が5回目の収録。1回に番組3本分を録るので、すでに15本分を録り終えたことになる。そのお陰で、各先生方ともすっかり親しくなり、もはや家族のような雰囲気の中で仕事が進められている。このように和やかな人間関係で仕事ができるというのも、たまたまご一緒できた先生方が皆さん素晴らしい人格の方々ばかりという恵まれた条件だからであろう。

タロットのマイヤー先生、アフィー先生は、年齢的にも私よりずっと若い方ではあるが、それぞれに実力もあり、魅力的な占いのスタイルを持たれている。お二人ともお会いすると、私をお姉さんのように思ってくださるのか、ときどき甘えるような仕草をされるのが嬉しい。

一方、易の鎗田宗准先生は、東洋占術の若き研究家で大変な実力の持ち主とお見受けしている。収録にはここ2回ほど明るく素直なお人柄の奥様と、このうえなく可愛い8ヶ月の明日香ちゃんが同伴されている。私は奥様とも明日香ちゃんともすっかり仲良くなって、次回またお目にかかれるのがとても楽しみだ。

風水の黒門先生もまた、大変注目されている実力者だ。4月にはじめてお会いした瞬間に、そのさわやかなお人柄に惹かれ、同番組でご一緒できることを心から嬉しく思った。収録に毎回、ご一緒に来られる奥様もおだやかでチャーミングな方! 黒門先生ご夫妻はまさにおしどり夫婦そのものね。今日は14歳のお嬢さんもご一緒で、そのお嬢さんがまた、ちょっとボーイッシュなムードの美少女。手相を拝見したが、きっと素敵な女性に成長されると思う。

黒門先生、鎗田宗准先生、J.H.マイヤー先生、アフィー先生はいろいろなメディアでご活躍されている。まだご存知ない方がいらしたら、ぜひ検索などされて、各先生方の占いに親しまれるようお奨めしたいと思う。

2005年7月16日(土)

この子とも10数年のお付き合い

私が18日までしか東京にいない関係で、連休の土曜日にもかかわらず、某出版社の編集の方が、わざわざ休日を返上して打合せに来てくださった。長いお付き合いで、お互いに気心も知れているから、こういうときには無理をきいてもらえる。ありがたいことね。

打合せは予定通り1時間半で終わり、私はその足で行きつけの美容室へ向かった。ここの美容師さんとも長いお付き合いで、もうかれこれ20数年にもなる。以前は某有名美容室の美容師さんであったが、数年前に独立され、新宿にご自分のお店を構えられた。経済的事情があったのであろう、はっきり言って、オシャレな感じはまるでない美容室だ。でも、私はその美容師さんの腕を信用しているので、この美容室に通っている。

青山、六本木、原宿といったトレンディーな街には、見るからにオシャレな美容室があちこちにある。正直、私もそうしたお店に足を運び、映画のなかの貴婦人のような扱いを受けてみたいなと、誘惑にかられたことはあるのよね。でも、そうした浮気はまだ1度もしたことがない。聞くところによると、美容室は固定客の占める割合が高い業種だそうだ。裏返せば、それだけ大半の人が「行きつけのお店」にこだわっている証拠だろう。

これは何も女性に限ったことではなく、男性も床屋さんは昔からのところと決めている方が多いらしい。なかには引っ越し先からわざわざ電車に乗って、以前からの床屋さんで散髪をしているという人たちも多いそうだ。

これはどういう消費者心理なのかと改めて考えてみると、ヘアスタイルに関しては男女を問わず、かなり保守的な意識が強いのかも知れない。万が一、気に入らないカットや染め具合になってしまったら……という心配が先にたって、どうしても気心が知れた、自分の髪質をよくわきまえてくれている同じ美容師さんにお願いしてしまう。あれこれ希望を言わなくても、黙って椅子に座れば大丈夫。何も案ずることなく雑誌に目を通したり、ときにはいい気持ちで眠り込んだりできるという安心感が一般にあるからであろう。もちろん私もそのひとりだ。

それにしても、私は、冒頭の編集者も含め、「長年のお付き合い」という方が多い。新しい仕事では、お付き合いが始まったばかりの方もあるが、仕事関係では7割方が10年以上、中には20年以上という方も多い。また、私が仕事を始めたときから、いまだにずっと連載を続けている雑誌の編集部もある。そういう編集部の場合は、編集長さんも担当の編集の方も人事異動で何回か替わっているから、外部の人間である私のほうが、その編集部の昔からのことをよく知っていたりするのよね。私は決して社交上手ではないのに、一度お付き合いが始まると長いというのは、とても恵まれていること。そして、「結城モイラ」が今も健在で頑張ることができるのは、そうした長いお付き合いの方々のお陰であると、改めて感謝の気持ちが湧いてくる。

2005年7月15日(金)

JAL1024便の翼 ちょっと芸術的じゃない?

東京からニセコまで一緒に行動を共にした愛車を千歳空港の近くの駐車場に残して、今日、東京に戻った。こんなやり方でクルマを置き去りにしたことはない。それだけに、千歳空港を飛び立ったJAL1024便の小窓から外を眺めながら、ちらっと申し訳ない気持ちになった。この駐車場は、空港周辺の空き地を利用したビジネスマン相手に設けられたもので、この種の駐車場は何カ所もあるようだ。どこも1日500円から800円ぐらいで駐車できて、空港への送迎もしてくれる。リーズナブルだし便利で有り難いのだが、ほとんどが空き地に近い状態の駐車場が多いようだ。今日、クルマを預かってもらった所も同様で、夜にでもなればキツネかタヌキでも現れそうな雰囲気。これではクルマ自身が見捨てられたような、淋しい思いになるのではないかと、何となく罪の意識のようなものが胸にうずいた。

ところで、東京は半月ぶり! 今回、東京に戻ったのは、テレビ番組の収録が17日の日曜日にあるためだ。ニセコを発つ前に、東京の暑さは覚悟していたが、羽田空港に降り立った瞬間に、この湿度の高さには恐れ入った。気温が高いだけならまだしも、湿度が高いと、私のDNAのどこかにすり込まれている北国体質には耐え難いものがあるのよね。でも、ブツブツ文句を言ったところでどうにもならないこと。「どうせなら、東京の暑さをとことんまで味わおうじゃないの!」と、すぐに気持ちを切り替えた。これって、カラ元気のようなものかもしれないけれど、そう自分に言い聞かせると、その気になるのよね。

単純な人間と思われるかも知れないが、これはもっと痛切な、大きな障害を前にしたときの対処方法としても、ベストなやり方ではないかと、私は思っている。つまり、ウダウダと悩み続けても決して障害は取り除かれないし、物事が良い方向へ動くことはない。そうしたときは、この障害は今、自分に必要だから起こっているのだと、まず、それを受け入れることが大切だ。私はけっこう長く生きてきたので、それなりにいろいろな障害を体験しているが、世の中に乗り越えられない障害などないと実感している。辛い状況を受け入れた上で、それを乗り越えるにはどうしたらよいか、明るく前向きに考えて努力を続ければ、必ず希望の光が射してくる。そして、いつの間にか障害を乗り越えていることに気づくものなのよね。

さて、東京にいるのは19日まで。明日の土曜も、収録日の翌日の月曜日も目一杯アポイントメントを入れてある。精一杯私に課せられた仕事をやり遂げなければ!

2005年7月14日(木)

日本の「パリ祭」創始者といわれる石井好子さん

7月14日が来ると、私は毎年ふたつのことを思い出す。ひとつは以前に飼っていた愛犬「バンビ」の命日。もう14年前のことだが、今でも、何かにつけバンビのことを思い出し、懐かしさが胸にこみあげてくる。バンビのことは、いずれ改めて書くことにして、もうひとつは「パリ祭」のことだ。周知のとおり、7月14日はフランス革命の記念日で、「パリ祭」という言い方は日本独自のものだそうだ。

では、なぜパリ祭と日本で呼ばれるようになったか、その経緯を調べてみると、1933年にルネ・クレールという監督がつくった「ル・カトルズ・ジュイエ」という映画に由来するらしい。この映画が日本で上映される際、「7月14日」という題名では、日本人はピンとこないということから「巴里祭」というタイトルが付けられたとのこと。その後、シャンソン歌手の石井好子さんが年に一度のシャンソンの祭典日を「パリ祭」と命名し、それが現在に至っているという。したがって、本家のフランスの7月14日と日本の「パリ祭」では、その意味するところがまるで違うのだ。

でも、日本の「パリ祭」に関しては、ちょっと想い出すことがある。大学時代に、東京の日比谷公園の一角にある日比谷公会堂で開かれた「パリ祭」のコンサートに行ったことがあるのだ。普段はあまりシャンソンに馴染みがなかった私だったが、たまたまチケットをいただいて、友人と行ってみたところ、これがなかなか良かった。その後、銀座7丁目にあったシャンソンのライブハウス「銀巴里」にも友人たちと3回くらい行っただろうか……。

当時のシャンソン歌手で強烈な印象に残っているのは、美輪明宏さん。当時、とてもスリムで、その中性的な容姿と演技力のある歌唱に、友人ともども圧倒された。その銀巴里も10数年前に廃業し、日本のシャンソンブームも下火に。シャンソンは少数の愛好家によって引き継がれているようだ。

先日、講演の仕事で札幌に出かけた際に、札幌のススキノに「銀巴里」というシャンソンのお店があることを知った。もう開業してから30年近くなるそうだ。このお店、銀座の本家「銀巴里」にお勤めだった方が、のれん分けをしていただいて、ススキノに開業したとのことだ。残念ながら、今回は、時間がなかったが、次回、札幌に行った際は、このお店に立ち寄ってみようかと思っている。久しぶりにシャンソンに耳を傾けるのも、ちょっとオシャレじゃない?

2005年7月13日(水)

「ヨーちゃん、こんにちは!」

ニセコに来る前に、この日記で10数年昔に撮った羊蹄山(ようていざん)の写真を紹介したが、上の写真は今日午前中に撮影したものだ。こちらに着いてから、雨模様の日ばかりが続き、山の半分以上が雲に覆われたままだったが、今日、久しぶりに美しい全景を見せてくれた。そんなわけで、あらためてこの羊蹄山を紹介しておきたいと思う。

羊蹄山はその姿が富士山に似ていることから蝦夷(えぞ)富士とも呼ばれ、日本の100名山のひとつに数えられている。標高は1,893m、富士山が3,776mだから、富士山のちょうど2分の1の大きさだ。そうは言っても、北海道の西南では一番高い山であるから、周囲360度の地点からこの山を臨むことが出来る。ニセコ側から見える姿と真狩側から見える姿、あるいは札幌に近い中山峠から見える姿では微妙に異なる。

こうなると愉快ね、それぞれの地域の人々が「おらが村からの羊蹄が一番!」と自分の住む場所から見える山の姿を絶賛する。そして、他所から見える羊蹄山の姿をいろいろな理由をつけてけなすのだ。先日も札幌で真狩ご出身のご婦人とお会いしたが、やはりこの方も「羊蹄は真狩からが一番!」と自慢げにおっしゃっていた。そして、もちろんニセコ側の人々は「こちら側からの羊蹄が正式の羊蹄」などと言い張る。おかしなもので、私もいつの間にか、自分の家から見えるこの山の形が一番素晴らしく感じるようになってしまった。

でも、山というのは面白い。朝から眺めていると、刻一刻、その表情が変わる。山そのものが変わる訳ではないが、雲のかかり具合が異なるのだ。山頂付近にうっすらと雲がたなびくこともあれば、中腹から上がすべて雲に覆われてしまったり、靄がかかって山が全く見えないこともある。だから、雲がほとんどなく山頂まで見えると、つい嬉しくなって、「ヨウちゃん、こんにちは!」などと言ってしまうのよね。このように間近に山があると、人は皆、その山を愛さずにはいられなくなるようだ。山に生命を感じ、ときには擬人化し、山と対話しながら毎日の生活を営んでいる。

私のホームグラウンドは高層ビルが建ち並ぶ、きわめて人工的な街。このニセコにいるときは、この山を眺めることで、心にたまった一種のしこりをゆっくりとほぐしている気がする。

2005年7月12日(火)

ニセコの時の流れと私の体内時計

昨日の日記で、ニセコは私にとって、たいへん居心地の良い場所であると記した。でも、これはずっと以前から感じていたことだが、ときとして、東京との時間の流れ方の違いに戸惑うことがある。ニセコは何かゆったり、ゆったりと時間が流れている感じがするのだ。私に時間的にゆとりがあるときは、このゆったりが実に心地いい。ただ、一日中執筆に追われ、1分も無駄に出来ないような日は、窓外の時間の流れと、自分自身の時間の流れに大きな違いを感じてしまう。ニセコの時の流れと、どこかずれている東京仕込みの体内時計と言ったらよいだろうか。自分だけがヒートアップしているような、奇妙な感覚になるのよね。

これは決してニセコの人々が、忙しく暮らしていないということではない。私が見ても労を惜しまず、本当によく働いている。でも、不思議にあくせくした顔をしていないのよね、これはすごいことだと思う。どうして、こんなにもゆったりした表情をした人が多いのだろうか、おそらく東京とはまるで違う、自然の懐に抱かれた環境のためだろう。

私の事務所がある東京・新宿では、たえず車の走る音が聞こえ、パトカーや救急車のサイレンも頻繁に鳴れば、人声もする。つまり、年がら年中かなりの騒音が続く中で、パソコンに向かって執筆しているのだ。そして、一歩外へ出れば、次々に人とすれ違い、皆どこかあくせくとしている。忙しさを顔に描いたような人が多いのよね。

ところがニセコの家では、だいいちに車が走る音がほとんどしない。ましてや、パトカーや救急車のサイレンなど、この9日間一度も聞いたことがない。音といったら、鳥のさえずりや、風にそよぐ木々の葉ずれの音ぐらいかしら。外に出てみても移動には皆、車を使うから、歩いている人を見かけることがきわめて少ない。それはそうよね、ここは、ちょっと買い物といっても、5、6キロ離れた町まで行くことになるのですもの、車がなければ、とうてい生活できない。とは言っても住民が少ないから、車の台数も少なくて、町までの5、6キロの間に、ときには一台の車にも出会わないことがある。

とまあこんなふうに、東京とニセコでは、その環境に大きな違いがあり、それが私の体内時計をときどき狂わせたりしているようだ。これは一種の時差ぼけのようなものかな? これからは東京とニセコを頻繁に行き来することになるから、きっと体内時計の調節もうまくできるようになるわね。

2005年7月11日(月)

空気の中に花の香りが……

私がニセコに移動したことを知った多くの方々から、さまざまなメールをいただいた。「ニセコの生活をいろいろお伝えください。楽しみにしています」というメールもあれば、「先生はニセコに永住されるのですか?」、「ニセコに引きこもってしまうのですか?」、「東京にはいつ戻られるのですか?」といった質問も多い。確かに東京からニセコというと、その距離はかなりある。私がニセコに蟄居してしまうようなイメージを持たれたとしても、当然かもしれないわね。

今日の日記では、そのへんの誤解を解いておきたいと思う。私が13年前にニセコにセカンドハウスを建てた経緯や、今回こちらに来た理由は、すでに日記でお話ししたので省略する。ニセコは確かに私にとって今でも魅力的な、居心地のいい第二の故郷と言える場所だ。でも、私にとって第一の故郷は生まれ育った東京であることに変わりはない。仕事の関係を考えても、ニセコに居っぱなしというわけにはいかないのよね。

したがって、そのときどきの仕事の状況によって、臨機応変に東京とニセコを行ったり来たりという生活にしようと思う。現に今回も15日には東京に戻り、17日のテレビ番組収録の準備をしなければならない。そして、また19日にはニセコへというぐあいだ。そして7月いっぱいまでニセコで過ごし、また東京へ。8月は東京での仕事や用事が目白押しなので、ニセコに移動することはない。

こんな行ったり来たりの生活では、ますます忙しくて大変なのではないか、体は大丈夫なのかと心配される方もいっらっしゃるようだ。でも、私はかえって生活にメリハリがつき、自然の中で過ごすことで健康にも良いと考えている。今、少し窓を開けて、この日記を書いているが、ほんのり甘い香りが窓から入ってくる。森や野の花の香りだろうか。長年、こちらに来なかったせいか、なおさら、この空気の良さに敏感になったようだ。

2005年7月10日(日)

7月8日の朝、札幌時計台

実はこれは2日前の話になるが、7月8日(金)に札幌で、午後2時と6時から、2回の講演を行った。札幌までは車で2時間半以上かかる道のり。万が一、何かあったときのことを考えて、前日に札幌入りして、ホテルに宿泊した。

さて、この講演はどこが主催したものかというと、1件目は会計士さんの全国組織のひとつであるミロク会計人会北海道支部の第30回総会の記念講演。2件目は、建築設備の設計・管理では東京以北で高い評価を受けている大洋建築設備研究所の創立40周年祝賀会記念講演だった。両方とも、占いとはおよそ無縁と思われるビジネスマンの方々を前にしての講演なのよね。それも出席者のほとんどが男性だと前もって知らされていた。因みに、ミロク会計人会総会は約60名、大洋建築設備研究所の祝賀会は約180名の出席者数であったそうだ。

私の場合、講演というと、たいてい占いに関心がある女性の集まりで行っている。だから正直のところ、ビジネスマンの方々に占いの話をしてどのようなリアクションがあるのか、やや不安だった。でも、まさに「案ずるより産むが易し」ね。講演が終わると多くのご出席者の方々から、「占いを見直しました」とか「確かに同感させられるところが多々ありました」などと、とても嬉しいポジティブなご感想をいただいた。また、多くの方々と名刺交換をしたり、記念写真を撮っていただいたりで、たいへん和やかな気分のいい1日を過ごすことができた。

でもそれだけではなく、この2件の講演は、私にとって、きわめて意義深いものになった。というのは、私が長い間留守にしていたニセコの家で再び生活しようと決意していたことは、公にはどこにも話していなかったのよね。それなのに、あたかも私がニセコに来ることを前提にしたような2件の講演依頼があったのだ。私が密かにニセコ行きの準備をしているのと同時期に、不思議なことに、この2つの団体が「結城モイラに講演を依頼しよう」と計画をしていたのだ。

私はこのような「偶然」をよく経験する。新潟に住む叔母へ電話したその日に、古い知人から新潟の笹だんごが送られてきたこと。紅秀峰というサクランボを今年は食すのを諦めていたところ、その紅秀峰を訪問先の会社からプレゼントされた話などはこの日記に書いたので、ご存知の方もいらっしゃるだろう。

ところで、こうした「偶然」は単なる偶然ではなく、「必然的に起こった出来事」であると私は確信している。スイスの有名な心理学者ユングが提唱する「シンクロニシティー」だと思う。人間の潜在意識の奥底には、世界中の人間に共通する潜在意識の流れのようなものがあるとユングは言っている。そして、その流れに自分の「思い」や「願い」が届くと、まるで偶然のように、それを叶える人物が現れたり、物事が起こったりするという。今回の講演依頼を通じて、これは間違いない事実だという信念をますます強くした。

ミロク会計人会北海道支部総会での記念講演

大洋建築設備研究所創立40周年祝賀会での記念講演

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