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このページは2006年12月3日〜12月14日の日記です。

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2006年12月14日(木)

やっと手に入ったターシャのDVD

午後のお茶の時間に「きょうの日記は何を書こうかしら?」と思いを巡らせていたら、宅配便の方から事前確認の電話がかかってきた。しばらくして届いたのが上の写真のDVD。「喜びは創りだすもの。ターシャ・テューダー四季の庭」という、以前NHKが放送した90歳のターシャの生活ぶりを記録した映像をDVDにまとめたものだ。実は以前、このドキュメンタリーが再放送されたとき、VHSで録画し、それを何回も観て楽しんでいた。ところがどういうわけか、そのビデオが見当たらない。どうしても見つけ出すことができなかったので、インターネットで探し、個人の方がオークションで売りに出されていることを知った。

そこで即、入札。結果を待ったら、運良く私が落札できたというお知らせメールが届いた。その後、先方の指定銀行口座に代金を振り込んで、やっときょう目的のDVDを手にすることが出来たのよね。封を切ると、とてもきれいな状態のもので、小型の写真集とDVDがケースに収まっている、いわゆる「愛蔵版」というものだ。きっと、このDVDはこれからもちょくちょく観るだろうから、私が録画したVHSが見つからないのは、むしろ幸運だったと言えるわね。おかげで、DVDという半永久的な映像録画を手にすることができたのだもの。

「ターシャ・テューダ」のことをご存知ない方のために簡単に説明させていただくと、彼女は1915年生まれのアメリカ人。現在は91歳になる。映像のターシャは90歳で、まだまだ元気いっぱいだったから、今も元気のはず、いえ元気でいて欲しい! で、彼女はどういう人かと言えば、世界的に有名な絵本作家。「パンプキン・ムーンシャイン」とか「コーギビルのいちばん楽しい日」などが広く知られている。

でも、彼女を有名にしているのは、絵本もさることながら、その生活ぶりだ。バーモントという大自然に恵まれた田舎に30万坪もの土地を所有し、その中でアメリカ開拓時代さながらの素朴な一人暮らしをしながら、広大な庭を耕し、たくさんの花々にかこまれたガーデニングの日々を送っている。しかも、今も絵筆を持ち、創作活動に励んでいる。何という素晴らしい生き方だろう! 私はこの映像で観るターシャの動きひとつひとつに、何気なく語られる言葉ひとつひとつに熱い感動を覚える。不思議なことに、何回観ても同じ感動に胸が震えるのよね。お正月にはまたじっくり観たいと思う。

2006年12月13日(水)

黄金色に紅葉した新宿のポプラの木 (バックは東京都庁)

昨夜は、夜10時過ぎに携帯電話の画面に留守電の印がついているのに気がついた。1417で伝言を聴いてみると、某出版社の雑誌編集部からで、さっそく先方に電話を入れてみると、残りの原稿を早急に欲しいという催促。私は明日中に書き上げれば良いと思いこんでいたから、ちょっと焦った。でも、こういう仕事をしていると、特にめずらしいことでないのよね。編集の方は明日の朝まで会社で仕事をするという。「じゃ、出来た分から少しずつメールでお送りしましょう」私も徹夜の覚悟を決めて、そう答えた。

結局、最後の原稿を送り終えたのは、午前10時。またもや、体には良くない完徹をやってしまった。しかも、こんなときって、いろいろなことが重なる。朝7時過ぎに、PCのメール受信のお知らせ音が鳴ったので、アウトルックを開くと、福岡の方からのご連絡。「おはようございます。 いつも占いを見せていただいております福岡市の**と申します。 あまりにぴったりあたるので驚く事があります。…(中略)… さて、今朝拝見して、あれ昨日の占いを間違って開いたのかな、と思ったのですが、12月11日月曜日とまったく同じになっております。 こんな事もあるのですね。」 というメール。

慌てて確認すると、「今日の運勢」に掲載されているのは確かに11日の運勢だ。これでは「今日の運勢」を楽しみにしてくださっている全国の読者の方に申し訳ない。そこで私は、ホームページの更新をお願いしているM&Jさんにさっそく連絡。ところが、留守電でいっこうに連絡がとれない。でも、こういうときはじたばたしてもはじまらない。時の流れに従おうと気持ちを整理した。やっと連絡がとれたのは9時40分。10時27分になって、本来の13日の運勢がアップできた。福岡市の**には、お知らせくださって、とても感謝している。知らずにいたら、とんでもないことだった。

徹夜とホームページの更新トラブルで私の疲れも限界にきていたのだろう、1時間程度仮眠をとろうと思ってベッドに横になったら、目覚ましをセットしておいたにもかかわらず、午後2時まで熟睡してしまった。目覚ましをいつの間にか消してしまったのだろう。「あら、寝過ぎた! 今日はどうしても郵便局に行かなければならないに!」まだ目覚めない頭で考えながら、やっと起き上がり、簡単な身支度をして外に出た。歩いて行ける距離なので歩道を歩きはじめると、街路樹がすっかり紅葉を過ぎて、葉を落としはじめている。東京に帰ってからは猛烈に忙しく、マンションの駐車場から目的地まで車で移動するだけの毎日だった。そのせいか、今までこんなことにさえも気づかなかった。街路樹にゆっくり目をやる余裕がほとんどなかったのよね。

上の写真は、黄金色に紅葉した銀杏の木。バックのビルは東京都庁。我ながら、これはちょっとナイスアングルかな?

2006年12月11日(月)

♪♪ 真っ赤なお鼻のトナカイさんは……♪♪

きょうは昨日に続き、QVC出演のため、またもや千葉県幕張のQVCスタジオを訪れた。昨日の日記でお伝えしたように、QVCのあるビル周辺はクリスマス・デコレーションが華やかだ。上の写真のトナカイは、正面入り口の植え込みの中に飾られている。私は、立ち止まり、しばし、このトナカイさんを見ながら、ふと子供のころの感慨深い記憶に思いをはせた。

クリスマスのトナカイと言えば、楽しげなリズムに乗って歌われる「赤鼻のトナカイ」を思い出す方も多いはず。でも、その歌詞によく耳を傾けると、実は、ちょっと悲しい物語が秘められているのよね。他のトナカイにはない真っ赤な鼻を持つトナカイ、ルドルフは、皆の笑いものだった。ルドルフはその鼻がコンプレックスとなり、仲間からも離れた生活をするようになっていた。ところが、ある日、クリスマスプレゼントを届ける旅に出かけるサンタクロースが、この赤鼻のトナカイの存在を知り、「そうだ、このトナカイがいてくれれば雪や霧や暗い夜道でもソリは安全に進めることができる」と判断。ルドルフは、それまでは8頭立てだったトナカイの先頭を走ることになり、9頭立てのソリとなって、クリスマスプレゼントを世界中の子供たちに無事届けることができたという物語。

子供の頃から、周りの日本人とは外見が違っていた私は、それが原因で陰湿ないじめあったことが多く、「他とは違う外見」がコンプレックスとなり、心に大きな傷となっていた。今だから明るく言えるが、子供時代の私は、人知れず涙することが多かった。そんな私がこの歌を聴いたのは小学校時代だったが、いつしか、私は、この歌の中の赤鼻のトナカイと私自身を重ねるようになっていた。だから、この歌が聞こえてくると、今でも、楽しげな歌の雰囲気とは裏腹に、辛かった子供の頃のことが一瞬、思い出される。

でも、この歌には救いがあるのよね。「真っ赤なお鼻のトナカイさんは、いつもみんなの笑いもの」、「でもその年のクリスマスの日、サンタのおじさんは言いました」、「暗い夜道はピカピカのお前の鼻が役に立つのさ」この「お前の鼻が役に立つのさ」という一点に当時の私は希望を持った。「私もいつかは誰かの役に立ちたい!」と心に深く刻み続けてきた。ただ、この年になっても、まだまだ役に立つ人間にはなれてはいないのが、自分自身で歯がゆい。でも、私の一生はきっとこの歌を原点とした「旅」なのかもしれないと思う。そして今、この「旅」を共にしてくれる人に巡り合えた私は、残された人生の終楽章を今まで以上に懸命に生きて行きたいと思っている。

2006年12月10日(日)

QVC放送直前のロビーで

今日は久しぶりに千葉県の幕張にあるQVCのスタジオに足を運んだ。夕方5時半からの生放送なので、事前打ち合わせを含めて、午後4時にはQVCに入らなければならない。そのため、2時半には新宿のマンションを出た。首都高速は幸いなことに渋滞せずに、車はスムースに走った。茜色の西日を浴びたレインボーブリッジから見渡す東京湾ウオーターフロントのビル群が、まぶしく、ちょっと新鮮に見える。つい数日前まで、雪の野山に囲まれた北海道のニセコで過ごしていたせいかもしれない。

幕張に着き、駐車場に車を駐めると、冷たい風に枯れ葉が舞っている。でも、ビルの周辺はすっかり明るいクリスマスムード。トナカイをかたどった電飾や雪の結晶を模したイルミネーション、それに無数の豆電球が光り輝いている。私は思わず嬉しくなって、大型のクリスマスツリーのそばに駆け寄って、記念写真を一枚。(上の写真)

さて、今日のQVCは、昨夜の12時から今夜の12時までの24時間をジュエリーだけで構成する「ジュエリーデー」という特別なイベントデー。だから、QVC側も出品者側も大変な熱の入りようで、真剣そのもの。スタジオに入ると、関係者のピリピリした神経の波動が痛いように感じられる。以前の私であったら、そうした雰囲気の場に身を置くと、ひどく緊張してしまったに違いない。でも、「幸せの法則」というものを、自分自身の経験を通して体得してきた今では、ほとんどそういうことがなくなった。自分で不思議なくらいゆったりしていられる。「自分が最善を尽くし、後は天にお任せすれば良い」と心から思えるからだ。

で、今日の結果は、有り難いことに大成功を収めることができた。これは私の功績というより、モイラジュエリーに携わってくださっているすべてのスタッフの努力の結果。それと同時に、放送をご覧いただいている全国の皆様からの応援のたまものに他ならないのよね。本当になんて嬉しいことだろう。私は、感謝の気持ちをかみしめながら、QVCスタジオを後にした。

2006年12月8日(金)

クリスマスを祝うドイツのパン・シュトレン

昨夜、東京に戻ったが、マンションに着いたのは深夜だったので、東京の第1日目というのは今日からという感じだ。とは言っても、マンションに着いてから、なんだかんだと雑用をしていたら、結局、ベッドに入ったのは朝方。またもや、昨日と今日の境目が希薄になってしまった。

でも今日は、のんびり寝てはいられない。午後1時半から札幌のFM放送があるので、その準備もしておかなければならない。3時間ほど仮眠をとって、いつもの日常がスタートした。FM放送の出演は、前にも何回かお話ししたとおり、電話回線を通して、札幌のFM局に私のオシャベリをお送りし、それがリアルタイムで放送されている。リスナーの方から寄せられる「悩みごと相談」にお答えしたり、「次週の星座別運勢」を発表したりしている。

ここでウラ話をひとつ。このライブ放送に出演しているときは、必ずしておかなければならないことがある。それは、玄関のチャイムをOFFにしておくことだ。そうしておかないと、放送中に「ピンポン、ピンポン」という音が入ってしまう恐れがあるからだ。以前は、チャイムの電池を抜いたりしていたが、途中から、指一本でON/OFFの切り替えができるスイッチを付けてもらった。

で、放送が終わって、一息入れようと、書斎から出てきたら、玄関のドアを叩く音が聞こえた。慌ててドアを開けると、「チャイム鳴りませんでした?」と宅配便のお兄さんから叱られてしまった。スイッチを切っていたというのもおかしな言い訳になるので、私は「ごめんなさい」とだけ言って、荷物を受け取った。

それが、上の写真の「シュトレン」というドイツの伝統的なパンだ。12月1日の日記で「アドベント・カレンダー」をご紹介したが、やはりこの「シュトレン」も、クリスマスを待つ「アドベント」の期間だけの特別なパン。家族や友人、知人とお茶を飲みながら賞味するという、とっても由緒あるものだ。私は、クリスマスの時期になると、「クリスマスツリー」を飾り、「アドベント・カレンダー」の窓を毎日開き、「シュトレン」を薄く切ってはお茶を飲み、それにもうひとつ、「クリスマス・プディング」を賞味する。これは私の長年の習慣だが、今年は、「シュトレン」を、知人がグッドタイミングでプレゼントしてくださった。お心遣いが、このうえなく嬉しい。

因みに、この「シュトレン」は、見た目はケーキのような感じだが、ブランデーに漬けたドライフルーツがたっぷり練り込まれた重たいパン。表面には粉砂糖が振りかけてある。この白い粉砂糖が降誕したイエス・キリストの産着という説もあるようだ。コーヒーにも紅茶にもよく合うのよね。

2006年12月7日(木)

下船直前、フェリーフロントロビーにて

昨夜11時45分に苫小牧港を出航したフェリー「さんふらわ・みと」はあと1時間少々で茨城県の大洗港に着こうとしている。乗船して約18時間が経過しているが、フェリーでの移動を長く感じたことも退屈に思ったこともない。むしろこの時間というものが私にとってはこのうえない休息の時間であり、明日からの活力を充填できる時間なのだ。

この時間をどう過ごしているかと言えば、まずぐっすり眠ること。普段は毎日が徹夜のようなハードスケジュールなので、ここぞとばかりひたすら眠る。「よーし、寝る!」という自己暗示と、船酔い防止の薬を飲んでいる関係で、自分でも信じがたいほどよく眠れる。昨夜は9時間近く熟睡したようだ。あとは、テレビを見たり、読みかけの本を読んだり、ときどき売店にいって飲みものやお菓子類を買ってきたりする。

私がいつも宿泊している船室は、シティーホテルと同様の部屋のつくりと設備なので、比較的ゆったりと過ごせる。前回大洗から苫小牧に向かうときは、低気圧の関係で船がかなり揺れたが、今回はエンジンの振動がわずかにするくらい。実に安定した航行を続けている。なにしろ、ビルで言ったら、8階〜9階建てぐらいの、しかも横長の大建造物がゆっくりゆっくり太平洋の海原を走っているのだから、少々の波ではびくともしないわよね。

で、先ほどNHKのBS放送を観ていたら、なんとも感動的なドキュメンタリーをやっていた。それは、アフリカ(マダガスカル島)のエリマキキツネザルの生態を紹介した内容であった。彼らは、両親と子供の家族単位で群れをつくり森の中で生活している。母系家族を形成していることから、リーダーは母ザルで、移動のときは母ザルが先頭をきって木から木へジャンプし、続いて子供たち、最後に全員の無事を確認した父親ザルが飛ぶ。

ところがある日、一匹の子猿が怪我をして、動けない状態になった。それに気づいた父猿は、その子猿の怪我の箇所を一生懸命に舐めはじめた。約1時間もその場に留まり、傷口を舐め続けた。そのかいあって、子猿が動けるようになり、父子は先に行った家族の群れに追いつく。

すると、どうだろう! 今度は兄弟の子猿たちが、その傷ついた猿の傷口を代わる代わる舐めにきたのだ。中には、化膿した部分の肉を食いちぎって、化膿が広がらないようにしてやったりしている子猿までいる。なんという知恵だろう。私は、短いドキュメンタリーであったが胸をキュッと締め付けられるような思いになった。今の私たちの人間社会、家族の関係は、かなり病んできている。この猿たちの家族愛が、私たちが忘れかけている大切なもの教えてくれている気がした。

さて、あと30分程度で大洗に入港する。今夜からまた、東京での生活が始まる。

2006年12月6日(水)

出航前のレストランで日記を書くモイラさん

QVCのテレビ出演や出版社との打ち合わせがあるため、今日は一面銀世界のニセコをあとに、一路、フェリーの出発港がある苫小牧に向かった。途中、山道もあるドライビングコースなので、路面の凍結などを心配していたが、思いのほか雪の道は続かず、千歳市に入ってからは、路肩の雪もうっすらとしたものになった。苫小牧の市街に入ってから、給油に立ち寄ったガソリンスタンドの人に訊ねてみたら、北海道とは言え、苫小牧はあまり雪が降らない土地だという。

その代わり、車を降り、外気に触れると、身が縮むほど寒い。これは面白いことだが、雪に被われたニセコでは、寒いことは寒いのだが、身が縮むほど寒いことはない。むしろ、東京の真冬の寒さのほうが身にしみて寒いと思ったことがある。寒暖計を片手にニセコと苫小牧、それに東京の気温を測ってみれば、私が感じる体感温度というのは正しくないとは思う。でも、なぜか雪のニセコの方が寒く感じないのだ。ちょっとおかしな表現だが、傍らに立っている寒さとまとわりつく寒さ、忍び寄る寒さという表現ができるとすれば、ニセコの寒さは、寒さ自体が独立して、毅然と立っているような寒さだ。ひょっとして、肌と寒さの間には目に見えない隙間があるのではないかと思ったことがある。

それはともかくとして、今回、帰途のために乗船するフェリーは深夜便を選んだ。夜12時近くに出航し、明日の夜7時半過ぎに茨城県の大洗港に着岸する。深夜便の良いところは、移動の荷支度がゆっくりできること。早めに苫小牧に入ると、フェリーターミナルに行く前に、市街のレストランでのんびりと夕食をとることができる。さらに、翌日の日中が船内でたっぷりと時間がとれるため、電話やメールに煩わされることなく休養と、仕事の整理ができる。また、大洗港についてから、東京に向かう常磐道と首都高速道路が時間的に渋滞する恐れがないことだ。

この日記は今、苫小牧港に向かう前の市街のレストランで書いている。また、明日からは東京の生活の中で経験したこと、感じたことを私なりに日記に書いていこうと思う。

2006年12月5日(火)

グロリア・エステファンのクリスマスソング・アルバム

11月9日の日記でも書いたが、「iTunes」と「iPod」のおかげで音楽好きの私は書斎にいる間はほとんど音楽を聴きながら仕事をしている。「シャッフル」という機能を使うと、コンピュータが勝手に選曲してくれるから、バラエティーに富んだ曲を楽しむことが出来る。しかも、「プレイリスト」という機能を設定すると、自分の好みで分類した曲だけをまとめておいて、その日の気分で曲の雰囲気を変えることも可能。だから、この時期は当然クリスマスソングが中心ね。

今回、「iTunes」と「iPod」に曲をインストールするために持っているCDを整理してみたら、クリスマスソングのCDだけで67枚もあることが分かった。クリスマスソング好きとは言え、よくまあ、こんなに購入したものと、自分でもちょっと呆れてしまった。ビング・クロスビー、ペリー・コモ、フランク・シナトラ、ルイ・アームストロング、カーペンターズ、バーブラ・ストライサンド、セリーヌ・ディオン、マライア・キャリーといった名だたる歌手のアルバムとは別に、ヘンリー・マンシーニなどの楽団の演奏曲や合唱曲のアルバムも多い。その中で、ブロードウエイ・キッズという、子供たちが唄っているクリスマスソングは、いかにもクリスマスらしい、愛らしい雰囲気のあるアルバムで気に入っている。

しかしどれか1枚をと言われれば、私はカーペンターズのアルバムを推薦したいが、以前にも書いた憶えがあるので、今日はグロリア・エステファンの「クリスマス・スルー・ユア・アイズ」というアルバムを紹介しておこう。グロリア・エステファンをお好きな方は多いと思うが、彼女、1957年生まれだから、もう50歳になろうとしている。キューバ生まれの、ヒスパニック系の歌手だ。その彼女が全米に躍り出たのは1985年リリースの「ドクター・ビート」からで、グロリア28歳の時だ。だから、そのスタートは決して早かったわけではなく、むしろ遅咲きであった。でも、その後の活躍はご存知の通り次々と大ヒットを重ね、またたくまに名実共にスパースターと言えるアーティストの一人となった。

「クリスマス・スルー・ユア・アイズ」は1933年リリースだから、彼女36歳のときのアルバム。「序曲〜シルヴァー・ベルズ」、「ザ・クリスマス・ソング」、「ハブ・ユアセルフ・ア・メリー・リトル・クリスマス」、「レット・イット・スノー」、「ディス・クリスマス」、「アイル・ビー・ホーム・フォー・クリスマス」、「ホワイト・クリスマス」、「きよしこの夜」、「クリスマス・スルー・ヨア・アイズ」、「ダ・クリスマス・ツリー」、「クリスマス・オールド・ラング・サイン」の計11曲が収められている。なかなか聴きごたえのあるアルバムよ。

2006年12月3日(日)

無骨に、だが威厳を持って時を刻むグランドマザークロック

私は一般に言われるような「宝物」の類は、ほとんど持っていない。それでもとても気に入って大切にしている、私にとっての宝物はけっこうある。中でも、それを扱うときは白手袋をして、決して素手では触れないようにしているものが3つある。そのひとつは、スイスのリュージ社製のオルゴール。もうひとつは、やはり同じリュージ社製の小鳥がさえずる小箱。最後のひとつが、上の写真のようなオランダのワルミンク社製の「グランドマザークロック」だ。

オルゴールと小鳥のさえずり小箱はいずれご紹介したいと思うが、今日は「グランドマザークロック」について書いておこう。この手の大型時計は普通、「グランドファーザークロック=おじいさんの時計」と呼んでいるが、実は決まりがあって、「おじいさんの時計」と呼べるのは高さが2メートル以上なければいけない。私のは1メートル90センチだから、「グランドマザークロック=おばあさんの時計」と言うわけね。

もっともこうした呼び名は、1876年にアメリカのヘンリー・クレイ・ワークという作曲家が「おじいさんの時計」というあの有名な曲を作曲し、それが爆発的に流行してからのこと。その曲の楽譜の表紙に背の高い時計が印刷されていたために、背の高い時計が「グランドファーザークロック」と呼ばれるようになったそうだ。となると、それ以前はどう呼ばれていたのかというと、「ロングケースクロック」というのもあるし、大きなホールのような場所に置かれることが多かったために「ホールクロック」という呼び名もあった。

私のこの「グランドマザークロック」は、15分毎にイギリスのウエストミンスターの鐘の音を模したチャイムが鳴る。動力はゼンマイ式でいっぱいに巻いておくと8日間、時を刻んでくれる。いまどき、8日毎にゼンマイを巻くなんて面倒じゃない?という方もいらっしゃると思うが、私はこの面倒くささがたまらなく好きだ。日を数えなくても、チャイムの音を聴いていると、その勢いが次第にゆっくりしてくるから、もうそろそろネジを巻かねばと分かるのね。そうなると、私はいつもいそいそと、決まった場所の引き出しから白い手袋とゼンマイ回しを取り出し、毎回、こころを込めて巻いている。

「ぼくのおじいさんは90歳で死んだ。おじいさんが生まれたときから動き続けてきた時計、90年間、おじいさんの生涯を見てきた、そして今も動いている」……きっと私のこの時計もよく面倒を見てあげれば、私の死後でさえ、ずっとずっと働き続けてくれるに違いない。

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